広報パーソンのつぶやき

事業会社の広報担当者と広報コンサルティングの経験からコミュニケーション全般をメインに、ライフスタイル風なネタも。

夜討ち朝駆けは「記者の習い」?

 

  記者はスクープをモノにすることが宿命づけられています。他紙に先駆けて記事にすることを多くの記者が虎視眈眈と狙っています。半日(朝刊でスクープ記事が出て他紙が夕刊で後追い)早く記事にしたところで、「それほどすごいことなのか?」などと、その苦労を知らない我々は思ってしまいますが。

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 多くのマスコミは他紙に先んじて記事を書くことを旨としています。この習性は今後も変わることはないでしょう。日経の記者に「少しでも早く報道し、深く真相に肉薄したいので『(発表まで)待てない』ことを理解して」と言われたことがあります。

 

 事前の予告なしに経営幹部などの自宅を訪問し、取材を行うことを「夜討ち朝駆け」といいますが、今でも行われています。そうした行動に打って出るのも「待てない」からです。ただ、セキュリティが厳重になった昨今は取材先へのアクセスも容易ではないようです。

 

 かつては「役員四季報」に自宅住所が掲載されていましたが、今はそうではないので、「ヤサ割り」にも大変な労力が必要となったとこぼしていたのを聞いたことがあります。記者と広報担当者が信頼関係を築くためにも「(日中の)トップへのアクセス確保」がより大事になっています。

 

 ところで、新聞業界の用語とばかり思っていた「夜討ち朝駆け」という言葉ですが、語源は平安時代後期にさかのぼることを知りました。1156年に皇位継承摂関家の内紛に端を発したいわゆる「保元の乱」が起こりました。

 

 後白河天皇方には藤原忠通源義朝源頼朝義経の父)、平清盛崇徳上皇後白河天皇の兄)方には藤原頼長(忠通の弟)、源為義(義朝の父)、平忠正(清盛の叔父)などが就きました。兄弟が敵味方に分かれ、あいまみえることになった戦いです。

 

 この戦いで源為義が「夜討ち」策を進言したそうです。しかし、「皇位継承の争いで夜討ちを行うのは相応しくない」とした藤原頼長が却下しました。正々堂々と戦おうとしたのでしょう。しかし、戦闘は7月11日の夜明け前に平清盛らが「夜討ち」を仕掛けたことで始まりました。頼長の配慮が裏目に出てしまい、戦いの敗北と自身の戦死を招いたことになります。

 

 「後白河天皇の高松殿御所に集まり始めた武士は、深夜におよぶと雲霞のごとき軍勢となり、一番鶏の鳴くころ、まず六百余騎がくりだした」(「鎌倉と京」五味文彦著)とあり、「すぐに雌雄は決せられ、天皇方の大勝利」(同前)しました。それまで権勢を振るっていた藤原摂関家は急速に力を失いことになりました。

鎌倉と京 武家政権と庶民世界 (講談社学術文庫)

 

 この戦いが与えた影響は「武士の威力をまざまざとみせつけたこと」、「武力を握らなけねば政治の主役足りえぬことを思い知らされ、時代は一挙に武力の時代へと転換していった」(同前)と述べています。この3年後には平治の乱が起こり、平清盛等が勝利する一方、源義朝が殺害、息子の頼朝は伊豆に配流されます。平家の台頭も長くは続かないわけですが。

 

 保元の乱で武士が頭角を現しました。夜討ち朝駆けは「武士の習い」とされます。卑怯なようでも、それが習慣であり、ならわしです。現代では「記者の習い」になっているようです。応対する側はそんなことは知らないので、この先も続くのかは微妙な気がします。