広報パーソンのつぶやき

事業会社の広報担当者と広報コンサルティングの経験からコミュニケーション全般をメインに、ライフスタイル風なネタも。全国通訳案内士(英語)

同じ「評定」でも小田原と小山ではずいぶん違う結果になりました

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■評定と会議の違い

 「経験上、週明け早々の定例会議の多くは、長くて眠くて成果に乏しい」。5月30日の朝日新聞天声人語」の冒頭からの引用です。筆者に限らず多くの人が同様に感じた経験があるのではないでしょうか。

digital.asahi.com

 

 「天声人語」によれば、成果に乏しい会議の一方で、天下の流れを決めて語り継がれる会議もあると。それが戦国時代の終わりを告げる、関ヶ原の戦いの2か月前に開かれた「小山評定」です。徳川家康が家臣を相手に開かれた会議です。

 

 この場で、「北に進んで上杉景勝を討つか、西に転じて石田三成を倒すべきか」が決定されました。普段使われることの少ない「評定」ですが、複数の辞書を参照すると、「評議して決めること」、「皆で相談して決めること」とあります。

 

 目的のはっきりしない会議、そして単に集まっただけで物事が決まらない会議が多い中で、評定には「決めること」がその目的です。一方、会議は「関係者が集まって(一定の手続きにのっとり)議題について意見を出し、相談すること」とあり、「決めること」とは書いていません。

 

 地元の栃木県小山市では、今春から庁内の会議を評定と呼ぶことにしました。名称を会議から評定に変えた効果は大きく、「呼称が変わっただけなのに、ダラダラした会議が減りました。会議に臨む職員の気構えが目に見えてかわりました」という担当者のコメントを紹介しています。

 

■容易に結論が出ない会議の原因は?

 記事にもありますが、評定というと小山よりも小田原の印象が強い。小山評定の10年前の、豊臣秀吉小田原征伐のとき、北条方の評定が容易に決定しなかったところから、長引いて容易に結論の出ない会議のことを意味します。

 

 このときの北条方は、城中にこもる籠城か、野戦をしかけるか、和睦するかを相談したが、なかなか結論が出ませんでした。結果として籠城を決めますが、決断の遅れによって北条家の滅亡につながっていきます。ちなみにNHK大河ドラマ真田丸」は今夜が北条攻めです。

www.nhk.or.jp

 

 二つの評定を比べると、攻勢側と守勢側という立場違いはありますが、会議のそれぞれのリーダー、徳川家康北条氏直が果たした最終意思決定者の力量差が、明暗を分けました。

 

 かのスティーブ・ジョブズも、会議の効率化に関してはこだわりを持ち、厳選された優秀な少ないメンバーで構成するべきだと述べています。「プロジェクトの成果の質は、最終意思決定者が関わる程度に比例し、関わる人数の多さに反比例する」と。

ビジネス著者が語る、リーダーの仕事術:ダメ会議をやめたら会社が生まれ変わる! (1/2) - ITmedia エグゼクティブ

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「PR下手伊勢志摩の挑戦」という日経MJの記事

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■志摩観光ホテルのアワビステーキ

 伊勢志摩サミットが本日26日に開幕しました。日本では2008年の北海道・洞爺湖サミット以来です。10年ほど前になりますが、今回の会場の賢島にある志摩観光ホテルに、一度だけ泊まった経験があります。

 

 山崎豊子原作の「華麗なる一族」の舞台にもなった由緒あるホテル。ホテルから英虞湾が一望でき、小説さながらの光景を堪能することができます。ちなみにこのホテルの名物は「アワビステーキ」。各国の首脳にもおそらくふるまわれるのでしょう。思い出すたびに舌なめずりしてしまう、今でも忘れられない美味の一つです。

 

伊勢うどん」と「おかげ犬」

 三重県には、全国的に有名な伊勢神宮があります。20年に一度の伊勢神宮の「式年遷宮」が2013年にあったばかり。聞いたところによると、20年ごとに社殿を建て替えるので、保護を目的とする世界遺産にはそぐわないのだとか。1300年以上の歴史を持つ場所ですが、申請すらしていない。

 

 伊勢神宮のすぐそばのおかげ横丁も人気スポットだし、松阪牛伊勢エビなどコンテンツに事欠かない三重県です。北国育ちの筆者にとっては、どうしてもなじみが薄い場所。

 

 前回のサミットでは、翌年の洞爺湖町の観光客が約1割減少しましたが、その二の舞を避けようと、知恵を絞っているという記事が5月23日の日経MJにありました。「PR下手伊勢志摩の挑戦 サミット商法で勝つ」という記事です。 

 

 「伊勢うどん」と「おかげ犬」を取り上げていますが、どちらも筆者にとっては初耳。その意味では、「PR下手」という指摘はその通りなのかもしれません。

 

 伊勢うどんは、黒い濃厚なつゆを太いうどんに絡めて食べるもの。トッピングは控えめなのが主流のようですが、7種の具材を使った「G7サミット伊勢うどん」なるものもあるそうです。

 

 また、意外なことに犬と伊勢神宮とのかかわりは深く、江戸時代、病気などで伊勢神宮への「おかげ参り」ができない主人に代わり、犬を参拝させるのが流行り、これを「おかげ犬」と呼ぶようになった。

 

 この頃、江戸からも多く人が参拝に駆け付けたようですが、交通が未発達の時代なので、皆歩いていくしかない。なので、行きたくてもいけない人の代わりに犬を連れていきました。

 

 そんな犬との浅からぬ縁から、昨年12月に伊勢市内にオープンした「スヌーピー茶屋」には行列が絶えないのだとか。他にも犬をテーマにしたあやかり商法によって新たな観光客を呼び込もうとしているそうです。

 

 記事によれば、伊勢志摩方面のインバウンド需要の拡大も目論んでおり、「2014年に約18万人だった外国人宿泊者数は5倍となる年90万人を見込む」と。

yhkhashimoto.hatenablog.com

 

 ちなみに、洞爺湖の湖畔にはサミットの記念館(ザ・ウィンザーホテル洞爺リゾート&スパとは別)があります。使われた円卓や座れる椅子などが保存され、交流の様子を知ることができます。4,5年前の夏に行きましたが、とっても空いていました。(苦笑)

4travel.jp

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「官軍に負けたのではない清正公に負けたのだ」とつぶやいた西郷隆盛

西郷隆盛と熊本城

 「維新三傑」といえば、西郷隆盛大久保利通、そして木戸孝允。19世紀末に出された同名の本がその由来です。中学や高校のときに習ったはずの「維新三傑」の中で、「人となり」や業績まで広く知られ、記憶にも残っている人物は、西郷隆盛を置いていません。

 

 西南戦争で西郷は無念の最期を遂げます。今回の地震で、大きな被害にあった熊本を象徴する熊本城の天守を含む主要部分が消失(昭和に再建)したのは、西南戦争においてでした。

 

 猛攻撃をしかけながら、西郷率いる薩摩軍は一兵も城内に入ることはできませんでした。西郷は「官軍に負けたのではない清正公に負けたのだ」とつぶやいたと伝えられます。地震の被害が広がる中、被災された方々には、心よりお見舞いを申し上げます。

www.huffingtonpost.jp

 

 改めて西郷に興味を持つようになったのは、内村鑑三が書いた「代表的日本人(原題 ”Representative of Japan”)」を読んだからです。その第一章で西郷を取り上げています。(他に上杉鷹山二宮尊徳中江藤樹、そして日蓮。)

代表的日本人 (岩波文庫)

 

維新史の巨星

 西郷は、薩摩藩の下級武士として生まれながら、時の藩主の島津斉彬に取り立てられて頭角を現します。それでも、三度の流罪を招くなど、いわゆる“世渡り上手”とは対極の人物です。

 

 坂本龍馬が仲介したとされる薩長同盟では薩摩のリーダーとして、長州のリーダーで三傑の一人の木戸孝允と交渉にあたりました。戊辰戦争が勃発した時には、幕府側の代表勝海舟との会談で江戸城無血開城を成し遂げました。

 

 維新後も廃藩置県などの政策を実現しましたが、岩倉具視や大久保による謀略で、征韓論が葬り去られ、下野。その後、私学校の生徒によって反乱軍の将にかつぎあげられ、西南戦争が勃発、城山の地で49歳の若さで敗死します。

 

 その生い立ち方や生き様を知れば知るほど、多くの人の尊敬と愛着の念をつかんで離さない巨星だったことがわかります。

 

■欲がなく無類の犬好きの一面も

 「代表的日本人」で内村は、「生活上の欲望のなかった人は、他にいない」と評します。普段着は「薩摩がすりで、幅広の木綿帯、足には大きな下駄を履くだけ」で過ごしていたと紹介されています。上野公園の銅像のイメージ通りの人物だったようです。その身なりで宮中の晩さん会であれ、どこへでも現れました。

 

 無類の犬好きの一面も書かれています。「届け物はすべて受け取らず断っていましたが、ただ犬に関するものだけは、厚く感謝して」受け取ったといいます。「大変淋しがりやの西郷は、口のきけない動物たちと淋しさを分かち合っていた」。そんな人間味あふれるエピソードが書かれています。豪放磊落な面だけでなく、繊細さも併せ持った人物だったようです。

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