節目の歳に奮い立つか流れに任せるか
人生には節目の歳があることは、かの儒学の創始者の孔子が述べています。その一つが50歳です。果たして、天命を知り、奮い立つのか。それとも流れに任せるのか。“To be, or not to be, that is the question.” です。
■奮い立った伊能忠敬
伊能忠敬(1745-1821)はわが国最初の実測日本地図を完成させた人物として知られますが、その偉業に着手するのは、50歳を過ぎてからだと知りました。
忠敬は今の千葉県九十九里浜に生まれ、17歳で婿入りした伊能家の当主となり、同家の再興のために力を発揮します。東北地方の深刻な冷害や浅間山の噴火(1783)などに伴って発生した天明の飢饉(1782-1787)のときも、身銭を切って米や金銭を分け与えるなど、貧民救済に取り組んだ結果、領民には一人の餓死者も出なかったといいます。
その後もお家の再興と安定のために辣腕を振るいますが、50歳になったのを機に隠居を申し出ます。天文学や暦学への興味が断ち切れなかった忠敬は、周囲の反対を押し切り、江戸に居を移します。当時31歳の天文学者の高橋至時に弟子入り、天体観測や測量について熱心に学びました。
それが後の日本全土の測量、地図製作につながっていきました。測量を開始したのは1800年、忠敬が55歳のときです。蝦夷からスタートした測量しました。間宮海峡で知られる北方探険家の間宮林蔵による樺太調査より8年前のことです。
独力で始めた忠敬の測量・製図作業は幕府の知るところとなり、その正確さから、幕命となって70歳過ぎまで続きます。その成果は「大日本沿海輿地(よち)全図」として忠敬没後の1821年に幕府に提出されました。
前半生と後半生でこれだけ真逆な生き方をした人も珍しいです。
■「何もするな」と世阿弥はいう
室町時代の猿楽師の世阿弥は足利義満の庇護を受けて、能楽を大成し、その奥義を「風姿花伝」にまとめました。北山文化(14C末-15C初)の一角を父の観阿弥とともに支えた人物です。
世阿弥によれば、50歳を越えてから(の能役者)は、なにごとについても「しない」ということを方針にすることが大事だと述べています。
「このころよりは、おおかた、せぬならでは手立てあるまじ。麒麟も老いては駑馬に劣ると申すことあり。さりなが ら、まことに得たらん能者ならば、物数は皆みな失せて、善悪見どころは少なしとも、花はのこるべし」
(もう花も失せた50過ぎの能役者は、何もしないというほかに方法はないのだ。それが老人の心得だ。それでも、本当に優れた役者であれば、そこに花が残るもの。)
誰もが知ることわざに「初心忘れるべからず」がありますが、これも世阿弥の言葉が元です。若い時に失敗や苦労を忘れるなという戒めですが、必ずしも「初心」とは「若い時」に限らず、他に二つあるのだと。それは「歳を経て積み重ねられたその時々」と「老齢期」です。
奮い立つにせよ流れに任せるにせよ、「何事も遅すぎるということはない」ということは確信しました。