復興応援三陸ひとり旅(その③ 奇跡の一本松 完結編)
■岩手県最大の被災地
最終日に、大船渡からJRのBRT(バス高速輸送システム)に30分ほど乗って「奇跡の一本松」で下車しました。一部区間では、線路を撤去してかさ上げされた専用道を走ります。専用道は単線となっており、バス一台分の道幅しかなく、上下線の交差は限られたところでしかできません。また、元々は鉄道だったのでそれに合わせたトンネルをくぐるのも特徴です。路線バスとは違う不思議な体験でした。乗車するまでは鉄道だと思っていましたが。
大船渡市の東に隣接するのが陸前高田市。高田松原は文字通り陸前高田にあった松原です。市のホームページには、「約350年前から先人たちが植林を行い、市民の手で守り育ててきた高田松原。その美しさを多くの詩人が詠み、昭和15年には国の名勝に、昭和39年には陸中海岸国立公園に指定されました。夏には海水浴客でにぎわい、松に囲まれた遊歩道は市民の憩いの場所でした。」と紹介されています。
ところが、東日本大震災によって、死者、行方不明者は2,000人近くにのぼり、市街地や海沿いの集落は壊滅しました。この地は、岩手県内で最大の被災地となるとともに、約7万本と言われる高田松原は、350年ほど前に植林をされてから防潮林として街を守ってきましたが、この地震を前に大半が流されてしまいました。
■復興のシンボル
その中で唯一耐えたのがこの「奇跡の一本松」。凛として立つその姿に勇気づけられた被災者は少なくないのではないでしょうか。しかしこの一本松も海水によるダメージを免れることはできず、震災の翌年に枯死が確認されました。異論もあったようですが、復興のシンボルを後世に残すためにモニュメントとして保存整備されることとなり、現在に至ります。
この場所は、高田松原津波復興祈念公園として整備され、道の駅「高田松原」と「東日本大震災津波伝承館」がつい先日にオープンしたばかりですが、訪問時は供用前のため、迂回して一本松の近くまで行きました。
一本松の側には陸前高田ユースホステルが遺構として残っています。この建物は津波で水没・全壊しました。砂地だった地盤が津波でえぐられたために建物が半分で折れ曲がっています。幸い当時休館中だったので、人的被害はありませんでした。
復興応援など全くおこがましいですが、8年経って震災の爪痕の一端を初めて知る機会となりました。「来ることが応援」と勝手に思っているので、また来ようと思います。
復興応援三陸ひとり旅(その② 釜石・大船渡編)
■近代製鉄発祥の地
二日目は宮古から釜石に向かいました。三陸鉄道は元々、南リアス線(盛~釜石)と北リアス線(宮古~久慈)に分かれていましたが、この3月に、不通が震災以降続いていた宮古から釜石の区間をJRから移管されて開通しました。釜石といえば、近代製鉄発祥の地、駅前には日本製鉄釜石製鉄所があります。先日開幕したラグビーワールドカップの会場地(釜石鵜住居復興スタジアム 9月25日、10月13日)でもあります。
1858年に近代製鉄の父、大島高任(たかとう)が建設を指揮した「橋野鉄鉱山」が釜石駅から車で50分ほどのところにあります。市の北西部の山中にあり、日本に現存する最古の高炉跡などがあります。「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」の構成資産として2015年に世界遺産に登録されました。
そんな大島や製鉄業に関わった先人の功績がわかる「鉄の歴史館」は駅から15分ほどの小高い丘にあります。盛岡藩士だった大島は、近くで産出する鉄鉱石から洋式高炉による鉄鋼生産に国内で初めて成功しました。すぐ近くには高さが約48mの釜石大観音が立っており、時間があればセットで見学するのがいいかもしれません。どちらからも釜石湾が一望できます。
■本州有数のサンマの町
三陸海岸は景勝地が多いことは今回の旅でよくわかりましたが、高台からの大船渡湾の眺めも素晴らしいものでした。大型船舶も寄港できる岩手県最大の港湾ですが、天候に恵まれたことも奏功し、時間帯によって変わるその表情を堪能することができました。
このあたりはいくつもあるリアス式海岸特有の深い入江が特徴的ですが、震災では壊滅的な被害があったとされます。穏やかな海の様子を見ていると天災の恐ろしさを改めて感じさせられます。
食欲の秋を代表するサンマですが、大船渡は国内有数の水揚げ量を誇ります。近年は全国的に不良が続いています。最近の報道によれば、大船渡港の「今シーズンのサンマの来遊量は不漁だった去年を下回り、大きさも小さめで今月中旬までは深刻な不漁になる」(岩手放送HPより 2019年9月13日)といいます。何とも残念なニュースです。
完結編の「その③ 奇跡の一本松編」に続きます。
復興応援三陸ひとり旅(その① 宮古編)
■三陸の「オアシス」
二泊三日で三陸海岸をめぐる旅に出かけました。東日本大震災以降、仙台には二度来ましたが、それ以外の太平洋沿岸部をこれまで訪れる機会がありませんでした。震災があってから、行きたい気持ちをずっと持っていましたが、図書館で「三陸たびガイド 復興応援」という本をたまたま手に取ったこと、この3月に三陸鉄道リアス線で一部が津波で不通になっていた区間が開通したこと、で行くことを決意しました。
朝7時すぎの新幹線に東京駅から乗って、盛岡駅に到着。そこで1時間ほど待機してローカル線に乗り換えて13時過ぎに宮古に到着しました。岩手県沿岸の中央、本州最東端に位置し、「三陸のオアシス」と呼ばれるそうです。地元で配布している「三陸復興国立公園三陸ジオパーク観光ガイド」によれば、「三陸海岸の探勝の基点」とあります。
津波の高さを示す用語に「津波高」と「遡上(そじょう)高」があります。海岸に達した津波の高さが津波高で、資料によると宮古市内では8.5m以上に達したといいます。一方、海岸から進入してきた津波が、陸上に上がって到達した最高地点を遡上高といいます。市内ではあの日、40m近くが達したところもあったそうです。市内各所にある津波が到達した高さはこちらのものということになります。行った日と翌朝に市内を歩き回りましたが、2mを優に超える高さ表示がある場所を5か所ほど見つけました。
■三陸の「名勝」
市内の東に浄土ヶ浜という三陸を代表する景勝地(国の名勝にも指定)があります。駅からバスが出ており、15分ほどで着きます。ビジターセンターを抜けて遊歩道を使って向かいます。白い火山岩(流紋岩)が数多く林立し、海は紺碧とエメラルドグリーンのコントラストが見事です。地元の人によれば、三陸海岸でもこのように白い岩肌が連なっている場所はここだけだそうです。
「観光ガイド」の表紙は、レストハウス前から撮った浄土ヶ浜。この通りの美しい風景が眼下に広がっています。その地名は、「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆した先人の言葉に由来するそうです。
遊覧船は残念ながらメンテナンスでお休みでしたが、そのかわり「青の洞窟」を20分かけてめぐる7人乗り小型ボートに乗ってみることにしました。神秘的といえなくもないですが、季節や時間帯などによって見え方が変わるそうで、正直それほどの感想は持ちませんでした。むしろ海上からみる浄土ヶ浜のほうが一見の価値ありでした。
この日泊まった宿は宮古駅と浄土ヶ浜の間にあり、すぐ近くに旧宮古市役所や宮古港があります。宮古市役所は2018年10月に駅から直結する場所に移転しましたが、旧市役所の建物は残っています。いずれ取り壊されるのか、囲われていて中には入れませんが、震災の時の様子を示す案内板が残っており、ここにも津波が来たことがわかります。